ドリップコーヒーを淹れる人

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会社での昼食は何を食べていたのか。街道沿いに建っている会社のまわりには、外食できる店が限られていた。ステーキのファミレス一軒しかなかった。コンビニもない。

 

なので昼食は持参していた。持参するものは、ご飯を詰めた手作り弁当のときもあったけど、菓子パンひとつとコーヒーだけのときもあった。その時は30代でそんな食事でも足りた。同僚に「よくそんなので足りるね」と驚かれることもあった。そのかわり間食はする。好んで食べていたのは「フジパン ぶどうぱん」

 

紙のパッケージに入っていて素朴な外見。紙をバリッとやぶくと、コッペパンの大きさの無骨なぶどうぱんが顔を出す。牛乳100%のパン生地で、しみじみと味わい深いおいしさだ。それを少しづつ味わって食べる。

 

菓子パンのお供のコーヒーにはこだわりがあった。挽いたコーヒー豆のドリップコーヒーを持参して会社の冷凍庫に保存していた。お昼や休憩時間になると、会社のキッチンでドリップコーヒーをいれた。お湯を沸かし、一人分のドリッパーにフィルターをセットし、少しづつドリップする。あたりにはコーヒーのふくよかな香りが漂っていた。この淹れている時間と、コーヒーの香りがただよう空間も好きだった。

 

たかが菓子パンに、この淹れたてドリップコーヒーをつけるとぐっと豊かな味わいになり、満足感がある。このころは家でもインスタントコーヒーを飲むことはなかった。いつもドリップコーヒーを飲んでいた。

 

その会社では「コーヒー会員」というものがあった。月会費500円だったかそれ以上だったか。いつの日か少し値上がりしていた。会費を払うと専用のコーヒーマシンでホットコーヒーがいくらでも飲める。同僚にすこしだけ味見をさせてもらったが、紙みたいに物足りない味でうすい。コーヒーの味がしない。とても会員になる気はなかった。まぁ、コーヒーマシンで飲めるのは楽だしインスタントよりは本格的なのか。コーヒー好きだが「コーヒー会員」ではない私は、いつものように一人でドリップコーヒーを淹れていた。

 

ある日、それまで面識のない同僚と話すときがあった。なにかの拍子にその同僚は「いつもドリップコーヒー淹れていますよね」と言った。「えっ」と意表を突かれた。

「キッチンでドリップコーヒーのいい香りがしているから」とにこやかに言う。ドリップした紙フィルターはキッチンのゴミ入れに捨てていたから、そこからも香りはするだろう。

 

私と話すときがなくても、コーヒーの残り香で「いつものドリップコーヒーの人」と認識していたらしい。ちなみに「コーヒー会員」のうすいコーヒーではこの香りはしない。

 

コーヒーが冷めないうちに

コーヒーが冷めないうちに

  • 発売日: 2019/03/08
  • メディア: Prime Video