タンシチューと髪の話

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前回「髪を切る 」を書いた。続きの髪についての話。

もう十数年前の話だが、いきつけのダイニングバーがあった。夫婦でやっているお店で、そこのマスターとの出会いはたまたまだった。デパートで食器を見ていると知らないおじさんが「これシチュー皿に合うかな?」とかなんとか忘れたが、話しかけてきたのだ。同じくお皿を選んでいる同士だ。私はふいに話しかけられると、わりと人見知りせず会話ができる。「いいんじゃないでしょうか」みたいな同意の言葉を返した。

 

おじさんは、ごっそりと十何枚も大きなお皿を買うようだ。「そんなにいっぱい」と驚き、さっきの気楽な会話の流れで「お店か何かやっているんですか」とたずねた。するとその通りでダイニングバーをやっているという。「タンシチューも作っているんだ。よかったら今度来なよ」と、その場で地図を書いて手渡され、気さくなおじさんは風のように去っていった。手にはまるで狐から手渡されたような、宝物のありかが書いてありそうな地図だけが残された。さっきまで見知らぬ他人。こんな出会いもあるんだ。あとで木の葉に変わるんじゃないだろうな。

 

駅から少し離れているけど、バイクで行くとすぐだ。私はフットワーク軽く、次の日のお昼にそのダイニングバーに行ってみることにした。住宅地のなかの細い路地にあるので、知らない人にはなかなかわかりづらい。しかしおじさんが書いてくれた地図の通り行くと、迷うことなくたどり着いた。

 

ドアを開けると、カウンター席の他に、テーブル席がいくつか、カラオケ用のステージもありなかなか広い。この店をやってそれなりの月日が経ってるであろう。整然と並んでいるお酒のボトルやたくさんの透明なグラスが、その空間に居心地よさそうにしっくりと馴染んでいる。お客は誰もいなかった。しかし夜には常連客がお酒片手でにぎわうような、そんな気配が漂っていた。

 

そのお店は夫婦でやっていた。奥さんは綺麗で、おじさんより年が若そうだ。ほがらかな笑顔がすてきだ。私を見るなり、おじさんは「おっ」という顔をした。さっそくタンシチューを頼んだ。たっぷりと濃厚なデミグラスソース、じっくりと柔らかく煮込まれた分厚いタン。付け合わせの焼いたパンと一緒に、あっという間に食べおわってしまった。

 

その日からたまに通うようになった。その時の髪型はわりと長く、胸につかないくらいの長さだった。しばらくその長さだったけど「髪を短く切りたい病」は急にやってくる。バッサリとショートカットにした。

その髪でダイニングバーに行くとマスターは「あぁ、その短いほうがいいよ、サッパリして。女の人は長い髪で顔を隠したがるからな」と言った。うん、わかる。バサバサした長い髪は顔も気持ちも隠すこともできる。少なくと私は気持ちが前向きじゃないとバッサリとは切れない。髪を切ると、心は包み隠すことはなくむき出しになるようだ。

 

あれから十数年前も経っているけど、髪を切るときその時のことを思い出す。そんなことは重要な話でもないのに、ささいなことばかり記憶に残っているもんだ。あのお店はまだやっているのだろうか。