消えたマンション

前回のつづき。トラブルはなくなり快適な生活になった、と思われた。

木も花もとられる

4階の家の外の周りの植物は、花も実もならなくなってしまったけど、木は枯れることなく育っていた。玄関先には、外からの目隠しになる木があり気に入っていた。

コンクリートのマンションでありながら、周りに植物や花のある生活はいいものだと感じていたので、近くの花屋で色々と買ってきては植えた。葉っぱがカラフルなコリウスは好んで買った。緑だけでなく濃いピンクや紫色、縁取りされたような模様の入り方も美しく、そのデザインはさまざまだ。コリウスは繁殖力が強く水栽培でも育つので、部屋の中にも飾った。

しかしこの生活はずっとは続かなかった。植えてある木が原因で、3階の部屋に水漏れがしているから木を撤去したいと管理会社から連絡がきた。私が入居する前から植えられている木だ。木の根っこは地下に深く潜り込んでしまうので、悪さをしてしまったのだろう。気に入っていたのだがしょうがない。泣く泣く承諾すると専門業者にすっかり撤去されてしまった。まわりはコンクリートだけのそっけない外観になってしまった。

不吉な封筒が届く

そんな日々は過ぎある日のこと。仕事から帰宅してポストを開けると封筒が入っている。差出は裁判所からだった。仕事の疲れが吹き飛ぶほどドキリとし、不安が渦のように体に巻きついた。思い当たることはない、しかし……。身に覚えがなくても、誰かから訴えられるという可能性はある。何かやっただろうか。ものすごく不安になった。部屋の中に入りドキドキしながら中身を見ると、このマンションが差し押さえになり競売されるという。それは大家さんに金銭トラブルがあったという意味だ。

気に入っているマンションなのに、引っ越さなくてはいけないのか?その日はいつ来るのか?不安で夜も眠れない日が続いた。このマンションを契約した時にお世話になった不動産屋に相談したところ、契約書の「抵当権の設定」があるか調べてみるとよいと教えてくれた。抵当権とは、お金を借りた人(大家さん)が返済できない場合に土地や建物を担保とする権利のことだ。調べて見たら「抵当権の設定はなし」だった。これなら差し押さえ、競売にはならない。よかった!と、とりあえず一安心。「抵当権の設定」は人によって違い、私のあとに入居した人は「抵当権あり」の契約だったのだろう。

競売にかけられるというので、間取りを調べに業者が3、4人来た。来るのは前もって封書で知らされていた。私は「抵当権の設定はなし」の契約書を見せると「本当だ」と不思議そうな顔をした。人によって契約書がちがうというのは珍しいのだろうか。私は差し押さえとは無関係だけど、どういう話になるのだろうか。

入居時に間取りの図面をもらっていたので、それを差し上げたら拍子抜けしたようだ。間取りを測ったり調べるのが仕事なので何もすることはなくなってしまった。お礼を言われてすぐに出ていった。そして下の階の間取りを測りに行った。

不審な小太りメガネ

そんなある日のこと、仕事に行くためドアを開けたら、私服の小太りメガネの中年男性が4階にあがってきた。この人誰とびっくりした。「ちょっと見させてください」と小太りメガネが言う。「え、なにを?」。すぐ電車に乗らなくてはいけない時間だったので、気になりながらも構うことはできなかった。私を訪ねて来るなら3階にあるインターホンを鳴らし、許可がでたら柵の扉を開き4階への階段を登ってくるのだ。それを許可なしに無断で入ってくるなんて。いったい誰だ、不審者、泥棒か?

夜に仕事から帰宅するときは、不審者がいるのではないかと怖かった。何事もなかったが不安だったので警察に連絡し、小太りメガネの一部始終を話した。その付近のパトロールを強化してくれるという。その後はおかしなことはおきなかった。

マンションは競売にかけられが、管理会社が変わっただけでそのままマンションに住み続けることができた。生活になにも変わりはなくほっとした。その後は平穏な日々が続いた。ある時ふと気がついた。先日の小太りメガネは競売物件を見にきた業者の人だったと。いち早く話を聞きつけ、物件を偵察しに来ていたのだ。時期が合っているのでそうだと思う。

刑事がやってきた

そんなある日、ピンポンと誰かが訪ねてきた。「○○警察署のものです」。この地域の管轄の警察署の人だった。え、と思いすぐにドアを開けた。そこに立っているのは中肉中背の、ごく普通の中年男性だった。私服だが目立つ特徴はない。道端ですれちがってもとくには印象には残らないだろう。その人は警察署の刑事で、警察手帳を差し出した。テレビではよく見る光景だが、見るのは初めてだった。

このマンションの大家さんについて聞きたいという。「大家さんことは何も知らない」と素直に言った。本当になにも知らないのだ。逆に「大家さんに何かあったんですか?」と聞いた。「殺人事件があったんですよ」。私からは何も収穫がないと判断したようで、刑事はそのままあっさりと帰っていった。そうか、大家さんは殺されてしまったのか……。

引越した

結局ここには8年くらい住んだ。とても気に入っていたが、一人暮らしにしては家賃と間取りが贅沢だった。マンションの更新時期を目前に、少し縮小しようと引越しを決めた。間取りは小さくなったが、私好みの新築マンションを見つけハッピーだった。セミダブルのベッドと3人掛けソファーとパソコンデスクとテレビは処分した。布団の生活に変え、だいぶコンパクトな暮らしになった。ロフトがある部屋なので、そこに布団を敷いて寝た。枕元の壁には厳選したお気に入りの本を並べた。

夢か幻か

かつて自分が住んでいた住まいは気になるものだ。私が退居したあとの物件情報をインターネットで探した。家賃は12万円、私の時よりも高くなっている。「強気な値段設定だな」と思った。しかし駅から3分ほどの便利な条件もあったせいか、すぐに決まったようだ。ある時そこを通りかかったら、4階のベランダには洗濯物が干してあり、風でひらひらと舞っていた。

しばらくして都内では巨大な台風があった。屋上に建てられてプレハブ小屋が吹き飛ばされる動画を見た。あれを見て「あそこの4階は大丈夫かな」とふと思った。そんなことも忘れていた、2018年11月。またあのマンションの近くに用事があったので、ついでに立ち寄ってみた。すると、4階は跡形もなく消え去っていたのだ。思わず声をあげてしまった。4階はなくなり屋上だけになっていたのだ。

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実際に撮った屋上の写真

新しい住人が入ってから数年しか経っていない。違法建築で不具合もあったろうし、巨大な台風で被害があったのは想像に難くない。かつて自分が住んでいた場所とこんな形で再会するとは。すこし感傷的な気分になったが、しかるべき当然の流れでもある。複雑な思いが交錯し、そっとその場から立ち去った。